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2016年7月涌井 駿
トキ行きボート
インドも終わり僕らはついにラオスへやって来ました。誰かが言っていたように「ラオス」には一体なにがあると言うのか全く想像がつきませんでした。そもそもラオスはどこにあって何語を話すのかどんな人がいるのかさえ分かりませんでした。そんなラオス楽しみと言うよりも何だかそんな何も知らない土地、国へ行くことが僕にとっては奇妙で仕方がありませんでした。濃い霧で見えない湖の真ん中に一人ボートで漕ぎ出していくようで、嫌な気もしないし、怖がる必要もないし、かといって興奮するわけでもなくて、解かなくてもするするとほどけていく紐の様にラオスは存在していました。
ラオスはビエンチャンの空港から入りました。全ての国が首都から入るとは限らなくインドやインドネシアがそのうちの一つです。最初に到着する場所でその国の最初のイメージがついたり、その国の移動の仕方なども影響してくるので最初に足を踏み入れる土地は比較的大切になっていきます。
ビエンチャンはインドからの下痢が続き遠くまで行くことができませんでした。インドの尾が長くひいていました。そこで二日間はしっかりと休養をとることにしました。ラオス到着から三日目、僕らはラーカオ村と言う村へホームステイをすることになりました。なりましたと言っていてもあらかじめ決まっていたました。
村へは大きめのバンで約3時間ほどで着きました。道中は爽やかに開けた緑の草と木がありました。どこの国よりも緑は緑らしく、青はほのかに水色を含み、雲はぷかぷかと流れ、純粋でいやらしさのない景色でした。
村へ到着すると僕らは各家庭へそれぞれ移動しました。移動と言っても10メーター先に誰々のお家、隣に誰それのお家という風に密集していました。そして彼らは親戚や兄弟と言った素敵な結びつきでした。自分の家族が大人になっても身近にいるってのはとても大きくて大切な事だと思います。大人になると何年も会ってないとか仲が良くないとかたまに聞くので僕の兄弟達には「お兄ちゃんには何年も会ってないし、あんまり好きじゃない」とか言われないように、そして言わないようにしてもらいたいです。
僕らはなにも出来ないのに村の人々は暖かく、朝から晩まで美味しいラオスのご飯を出してもらいました。ご飯は、もち米、鴨のスープ、唐揚げ、キュウリとトマトのサラダ、ピリ辛のソースにつけるたけのこ、生姜のお粥など、どれも元気がでるし身体が温まるご飯でした。
ラスの朝は托鉢のせいか朝5時頃にはお母さん達が起き出してきて、お坊さんの為のご飯を用意する音がちらほら聞こえてきたりします。ここの村のお坊さんはイメージの斜め上をいくお坊さんでした。腕にタトゥー、右手にはタバコとまた違ったスタイルのお坊さんでした。お寺に集まっていたのは村のおばあちゃん達でした。お祈り用の服をきて買い物カゴにその日のお供えものをいれ、朝7時にぞろぞろとお寺に入ってきました。
仏教は仏教でも普段日本では目にすることの無い形でのお祈りはとても新鮮でした。普段お祈りと言うと僕はお葬式やそれに並列して行われる回忌くらいで、お寺に行きそこで「何か」をすると言う行動はなかなか僕自身の中にないものでした。なので毎朝決まった時間にお寺に行き心を鎮めてその日を始める、その行為はすごく神聖なことに感じました。だらしの無い僕には少々必要なのかなと感じさえしました。けれど日本のような、ましては東京のような場所に身を置く僕らには少し出来ないことなのかなとも思いました。それはラオスで流れている時間に身を置いた人のできることで、東京の流れに身を置いた僕らにはお線香をあげることでさえ出来ないことなのかと思いました。国によって違う時間軸は僕らの心の軸までも変えてしまうのでしょうか。人はみんな時間の中に生きていてその時間に流される人、流れに逆らう人、各々が自分が乗っている流れには逆らえないのかもしれません。