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2016年7月小山 幸佑
Swimming in the Flood
インド、バラナシ。
死んだ人間が野外で焼かれている所を見た。
黒焦げの頭部の鼻の穴から黄土色の液体が吹き出し、内臓と血が沸騰するシューシューという音が絶えず聴こえていた。
側の供え物の花をヤギが食っていた。
バラナシ周辺に住む人々は皆等しく死後マザーガンガーに還るのだという。この地で代々火葬人の仕事をするカーストの家系に生まれたという老人が、長い青竹の棒で生焼けの遺体を何度も叩き骨を砕く作業の合間に語ってくれた話。
川辺の寺院で4000年前から継ぎ絶えることなく守られている蝋燭の火から分けられた炎によって魂を清め、同時にその魂を肉体から解放しニルバーナへと送る儀式。その後に残った肉体の残骸である灰はガンジス川に流される。火を点ける前には祈りの儀式の後に故人の夫、兄弟、または親友がその炎を持って横たわった遺体の周りを5周する。人間を構成する5つのマテリアルが1周回るごとにひとつずつ肉体から抜けていくと信じられているからだ。
側のベンチや階段に座って遺体が焼かれる様子を見つめる100人余りの親族の男性たち。女性の姿はないか、若しくは居ても数人だけ。聖なる儀式の最中に誰かが涙を流すと死者が悲しんで行くのをためらってしまうからという理由と、以前は夫に先立たれた悲しみのあまりその業火に自分も共に身を投げてしまう妻たちが後を絶たなかったことから、親族の女性は基本的に家で待機するという決まりになったそうだ。
「妊婦、幼児、生まれつき腕または足のない者、蛇に噛まれて死んだ者」など決まった一部の人々は火葬されずそのまま遺体を川に流される。これは彼らは火葬されることを許されていないから…ではなく、彼らはあらかじめ清らかな魂を持っている特別な存在なので、炎で魂を浄化せずともニルバーナへ行けるから。
見知らぬ誰かが灰に還って行くのを側に座ってしばらく見つめていた。
人間死んだら煙か土か食いもの。犬に食われるほど自由だとは思わないが、不思議なほど何の感慨も起きなかった。
あの死体が自分の友人であったならどうだろう。母親だったらどうだろう。自分だったらどうだろう。
冷たいだろうか、けれどきっと同じように思うはずだ。「まるでモノみたいだ」って。
幼い頃はじめて乳歯が抜けた時、ついさっきまで自分自身だったものを掌の上でコロコロと転がしている感覚が不思議でならなくなった。今でも髪を切りに行くと、床に落ちている自分の髪の毛を見て同じことを思う。もしこのまま手を、腕を、足を、腹を、首を、順に切り離していったら最後にどこが残るだろう。きっとそこが心の在り処なのだろう。
命とは何だと聞かれたら、それは「現象」だとしか答えようがない。
いま自分を形作っている様々な物質の構成元素は、構成元素であって自分そのもではない。以前は別の誰かの身体の構成元素として彼や彼女を形作って居たのかも知れない。そしてまた未来の他の誰かになって誰かや何かを愛したり憎んだりするのかもしれない。
いま世界のどこかで降っている雨粒は、昔の誰かの血か涙。
指先に生えている爪は、1000年前に撫でられた髪、1000年後に剥がされるかさぶた。
ホテルのシーツの赤褐色のシミ。ザクロジュース。排水溝の髪の毛。あの子の指に埋まっている鉛筆の芯。
途端に、目の前のボールペンと自分が全く同列の物のように見えてくる。
肉体という現象の中に感情という現象が起こる様は、ちょうど夢の中で夢を見るようなものであると思う。