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2014年4月岸本 絢
次回はキャッチーなブログを書きたいです
日本の高校世界史は、なぜ現代史から始めないのでしょう。発言の大半に責任がないと定評があります、岸本です。ホーチミンからバスで国境を越え、カンボジアにやってきました。この国での撮影のメインとなるのが、今滞在している首都プノンペンです。
さて、もう恒例化してきた各国植民地歴史のお話をさらっと。
カンボジアは1863年にフランスの植民地となります。フランスによるインドシナの植民地化は、ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に遠征軍を派遣したことがきっかけで、1858年にスタートしました。カンボジアの場合、隣国タイやベトナムからの圧力に耐え兼ねたことにより、当時の国王ノロドムからフランスの保護国にするよう要請したという背景があります。フランスはその後1887年に、カンボジア、ベトナム、ラオスの3カ国をフランス領インドシナとしました。1953年の完全独立までの90年間、カンボジアはフランスの植民地下にありました。
話は飛んで、海外フィールドワークについて。突拍子もない話を始めるわけではないのでご安心を。私たちは海外に出発するまでの2年間、写真の基礎を勉強し、作品の企画書を作り、テーマの内容や撮影地について日本でできる限りのリサーチをします。私は植民地建築を撮ると決めていたので、出発前は建築物の撮影練習(もう少し真面目にやっておけばなぁ!と後悔。)と、被写体となる建物の歴史、場所をリサーチしました。なので、上に書いた内容は去年の時点でさらっているのでもちろん頭に入っています。
ところが、カンボジアの歴史は植民地時代の話をネットで検索しただけでは理解できないんですよね。これはどこの国でも当たり前の話ですが、プノンペンに到着し、一つの国を知るには現地の空気に直接触れるのが大事だと言うことを、改めて実感したのです。コロニアル建築を自分の目で見て感じたことは作品に収めるとして、今回はもっと現代の話。クメールルージュの大量殺戮が行われた場所をそのまま博物館にした、トゥールスレン虐殺博物館に訪れた話を少ししようかと思います。
ポルポト率いるクメールルージュによって大量のカンボジア人が虐殺されたのは皆さんご存知ですよね?私も現代社会の授業で軽く教わった覚えがありました。けれども、詳しく知る機会もないまま(5年前にキリングフィールドに訪れたはずなのですが…記憶は曖昧なもので…。)四半世紀を飄々と生きておりました。ここで解説できるほど偉くもないので、ポルポトの革命の経緯や詳しい話は書かないでおきますが(大躍進政策、文化大革命の類を想像するとわかりやすいですよね)
政権を奪取したポルポト率いるクメールルージュは、「国を指導する自分達以外に知識層は不要」として教師や医者、技術者、学生を経験した者を処刑しました。ポルポトの革命に反対する可能性のある人物「反革命分子」が出てくるのを恐れての政策です。この政策は年々エスカレートし、海外経験がある、恋人がいる、本を読んでいる、メガネをしている、腕時計をしているような人も無理やり理由をつけて処刑しました。
ポルポト軍崩壊後の調査によると、カンボジア国民の4分の1が虐殺によって命を失ったそうです。非常に驚いたのは、国民の85%が14歳未満だったこと。悪質な思想に染まってないとされる子供達が殺されることなく生き残ったのです。収容所の看守をしていたのも子供達だったと言います。
プノンペン到着の翌日、ジェノサイドが実行されたトゥールスレン虐殺博物館に行ってきました。この収容所は学校を一部改築して1975年4月17日に建てられました。私たちが訪れたのもちょうど4月17日で、これを教えられた時は鳥肌が経ちました。
建物内には拷問が行われた部屋があり、中には処刑された人が実際に使っていたベッド(骨組みだけしか残っていませんが)や拷問器具が、展示用のケースに入れられることなくそのままの状態で置かれていました。生々しい空気が漂い、一気に気持ちが沈んで行きます。敷地内に建物は全部で4棟。尋問部屋があったり、拷問の風景が描かれたイラストが飾られていたり、処刑されたであろう人々の記録写真が何百枚と展示されている部屋があったり。一緒に行った同期のみんなはじっくりと写真を見ていましたが、私は途中で苦しくなったので断念。今まで見たポートレートでも断然重く、最もインパクトのあるものでした。その他にも、拷問にあってもなお生き延びた方々のインタビューや、トゥールスレンに雇われていた人々のインタビューなどもあり、複雑な気持ちになります。拷問する側、される側に何の差があったというのでしょうか。同じ国に生まれ、同じ社会で育った人々をどこで線引きしなければならなくなったのか、不思議で仕方ありませんでした。
博物館には2、3時間滞在したでしょうか。抱えきれない事実、消化しきれない気持ちと共にその日はホテルへ帰り、指定泊を終えて個人の撮影が始まって2日が経ちました。歴史博物館についてなんてありきたりなブログを書くのも正直どうかと思ったのですが、いくらその話を口にしても、どれだけ考えても、収容所の光景と空気とが頭をぐるぐるするので思い切って書くことにしました。
虐殺が終了したのが1978年。今から36年前のことです。たったの36年前まで大量虐殺があった国に、街に今私はいるんだと。こんなことを考えながら、今日は写真を撮りました。フィールドワークをスタートさせて昨日でちょうど一ヶ月。今日撮ってきたフィルムを数えると、今までで一番の撮影枚数でした。いい写真が撮れているかはまだわかりませんし、枚数撮ったから良いというわけでもありませんが、こういう思いや感覚って、大事なのかもなぁと考えたりしていました。
プノンペンは明日も晴れ。日中の気温が40℃近くまで上がるこの街での滞在は残りあと5日間。暑さ対策も欠かさず、無理せず、時に休憩を挟み、撮影を最大限有意義なものにしたいと思います。