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2014年3月岸本 絢

家について考える

花蓮入りしました。一ヶ国目で三脚を紛失した岸本です。建築写真を撮るというのに前途多難ですね。けれども心配ご無用。近鉄電車に幾度となく忘れたランドセルも、酔っぱらって神泉辺りで落とした財布も、河口湖で無くしたiPhoneも、全て手元に返ってくる、私の大切なものたち。三脚もしっかり持ち主の元へと戻ってきました。以後気をつけます。注意力、注意力。
さて私は先日まで菁桐(チントン)に滞在していました。
今となっては観光地として人々を招き入れる街となりましたが、
かつては台湾の歴史上最大規模の生産量を誇る炭鉱として栄えていました。日本統治時代の話。1918年から台陽鉱業公司による炭鉱の開発が始まり、周辺には日本人職員や炭鉱労働者のために多くの日本家屋が建設されました。私の撮影拠点となったのも日本家屋を改築して造られた民宿。その名も北海道民宿です。
(統治時代は集落に日本の地名が付けられることがあり、この辺りは昔、北海道と呼ばれていたそうな)
この家も、かつては台陽鉱業公司の日本人職員によって住まわれておりました。戦後、日本人が撤退した後は台鉱公司に勤める台湾人取締役員のものとなります。しかし1971年に炭鉱での採掘に終止符が打たれ、その役員もこの地を離れることになります。これを機にこの家は、今のオーナーである、林さんに譲られることになりました。林さんも、ここで炭鉱労働者として働いていたうちの一人でした。
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日本家屋が現存する、懐かしさを覚える景色。
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炭鉱跡。トロッコも走っていた様です。
民宿の入り口、扉を開けると三和土があり、そこで靴を脱いで上がります。入って右手にある部屋は客間として使われていたのでしょうか。違い棚や付け書院があしらわれ、小さな縁側まであります。押入れもついてありました。部屋に押入れがあるなんて、台湾家屋にはありえないからね、と林さん。(私は中国語がてんでわからないので、別室に泊まっていたアメリカ在住の香港人のお姉さんに通訳をお願いしました。本当にラッキー!大感謝です。あ、お部屋の写真ローライでしか撮っていなかったので載せられませんでした。すみません。)
とはいえ、建てられてから何十年も経った建物。木製であったろう外壁はコンクリートで綺麗に固められ、外との境には赤煉瓦が使われています。様々な人によって住まわれ、手を加えられた一軒の家。どの家主よりも遥かに長い時間を経験しています。そんなことを思いながらふと、自分の泊まっている部屋の窓台に目を向けると、そこには幾重にも重ねられた傷の跡が残っていました。その窓台の木板がどの時期から使われているのかはわかりません。けれども、長い歴史の中で紡がれた沢山の物語がそこに刻まれているような、そんな気がしてならなかったのです。
私は中学生まで住んでいた、曽祖父の建てた古い日本家屋を思い出しました。記憶する家は改築後の姿で、すでに和洋折衷の造りとなっていました。その家の中心となるリビングとダイニングの境目に、二本の柱がありました。何の変哲もない柱。しかしそのうちの一本は、私たち家族にとって大切な記録の柱でした。というのも、私は幼い頃、二人の弟と三人で交互にその前に立ち、それぞれの身長を定期的に刻むということをしていたのです。家にまつわるとりとめもない小さな話。どこの家でもこのようなことってあるのではないでしょうか。
私の撮影方法は大判カメラを使うでもなく、シフトレンズを駆使するわけでもありません。建物をいかに忠実に美しく見せるか、という表現が作品のゴールでもありません。植民地化を含め様々な歴史を通じて経てきた、その建物に積もる時間を写し出したい。北海道民宿にあった、一枚の窓台から連想させられるような、人の痕跡と時間の経過。過去を見るようで現在を撮る、歴史家でもなければ建築家でもない一人の人間として、小さな物語の数々に立ち会うような感覚で建築物を撮れたらなあ、とそんなことを真面目に考えさせられる、数日間の菁桐滞在でした。
さて、自分で自分の首を占めるような文章をつらつらと書きましたが、早いもので一カ国目が終わろうとしています。もう少しこの国に留まりたい、という気持ちを抑えて次の都市、ハノイのホテルを探して今日は寝ることにしようと思います。
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