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2026年9月竹内 美光
マレーシアでも不調が続き、撮影できずにいた。
何も撮れていないことへの焦りもあって、「少しでも撮らなきゃ」と思い日曜日の教会へ向かった。
ちょうどお昼頃に着くと、ミサが終わったところで教会の一角にはたくさんの料理が並べられていた。どうやらみんなで昼食を食べていた。
ちょうどお腹が空いていたし、食べてもいいのかまわりを窺っていたら「食べな食べな!」と親切に声をかけてくれた。
見慣れない顔だったからか、「どこから来たの?」と聞いてくれる人も多かった。日本から来たと伝えると、「日本好きだよ!」と言ってくれる人もいて、自然と会話が弾んでいった。
せっかくのチャンスだと思い、自分が今撮影しているテーマについて話してみた。
「人は何を支えに生きているのか」という問いを持って、キリスト教の信仰と生活を撮影していること。そして実際に祈っている人や、その人たちの生活を撮影させてもらえる人を探していること。
すると、「今日、友達の家でお祈りをするから来る?」と誘ってくれた。
言ってみるもんだな、と思った。
案内された家には、すでにたくさんの人が集まっていた。そこまで広い家ではなかったので、男性たちは外に椅子を出して座っている。
お祈りの時間になると、7畳ほどのリビングに20人くらいの人が集まり部屋はぎゅうぎゅうになった。
お祈りは、1人が詩を読んでそれに続いてみんなで同じ言葉を繰り返すというものだった。
知らない言葉だったけれど何度も重なる声を聞いていると、その場にいる人たちが同じ願いを持って祈っていることが伝わってくるようだった。
その途中、1人の人が日本語に翻訳した文章を私に見せてくれた。
「彼は癌を患っています。明日、経過結果が出るのでみんなでお祈りをしています。」
そうだったのか。
私は、この祈りが誰かのために捧げられているということを知らなかった。
それを知ってから、さっきまで聞いていた声が少し違って聞こえた。
明日、検査の結果が出る。
その結果を待つ人のために、今ここにいる人たちが集まって祈っている。
「祈るってなんだろう」ずっとそんな思いを抱えながら撮影してきた。
私は、祈りは神と個人の中で完結するものだというイメージを持っていた。
でもこの日の祈りは、20人ほどの人が狭い部屋に集まり1人の人のために声を重ねている。
願いを自分1人で抱えるのではなく、誰かと一緒に言葉にする。自分にはどうにもできないことを神に託す。結果を待つしかない時間を誰かと一緒に過ごす。
こういう風に祈ることもあるのか、と思った。
癌を患っている本人は誰よりも必死にお祈りをしていた。必死にお祈りをする彼の姿を見ながら、ある人のことを思い出していた。
その日はなんだかよくわからない感情の中にいた。
何にしろ、幸せを願うばかりだ。