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2014年7月岸本 絢
書くことでもないんですけど上げますね
こんばんは、9ヶ国目、中国は上海におります。心なしかネパールにいるときよりも、中国人たちに囲まれている今の方が浮いている気がしてなりません、岸本です。今回は今朝まで滞在していた大連のお話。
遼東半島の最南端に位置する大連。経度は仙台と同じで、7月の現在は夏に当たります。日中最高でも25℃、最低温度も20℃と過ごしやすい気候です。FW始まって以来の過ごしやすさではないかな、と思います。問題は大気汚染。中国の都会はどこもそうですが、汚れた空気のお陰で空が真っ白に曇っています。
さて、久々に歴史の話を。
1898年、清朝は大連と旅順を帝政ロシアの租借地とする条約を結びました。不凍港を探していた帝政ロシアが目をつけたのが遼東半島南部に位置する大連。三山浦と呼ばれる小さな漁村だったこの街の、基本的な都市構造を造ったのがロシアです。
そしてこの街が日露戦争を経て日本の租借地となったのが1905年。そこから約40年間に渡って日本の統治下にありました。ダーリニー(ロシア語で「遠方」という意味)と呼ばれたこの地は日本軍によって「大連」と名付けられ、貿易都市として発展させるために関東都督府と南満州鉄道によってインフラ整備がなされました。
1945年、終戦後より大連はソ連軍に占領され、1955年に中華人民共和国に返還されました。1984年には経済技術開発特区に指定され、経済的に発展した現在、この街は中国第三の港湾都市となっています。
この国の被写体のメインとなるのが、日本統治時代に建てられた家屋。大連には5日間滞在して撮影をする予定でした。到着日は事前に調べていた場所を数カ所回ってロケハンし、どこからどう撮るのが良いのか等々考えながらふらふらと歩きました。
瓦屋根の木造住宅、というよりコンクリートでできた和洋折衷の家が目立ちます。とは言えかなりの築年数を重ね、崩壊しかけの住宅ばかり。住居人のいる家もありますが、所有権は市政府にあり取り壊し計画が進んでいるらしく、寂れた印象を受けました。その日は移動の疲れもあったので撮影には入らずその場をあとにしました。
翌日、ネパールで使うことのなかったメイン機と三脚を引っ提げバスに乗って前日訪れた場所へ向かいます。建物を目の前にいざ撮影を開始しようとするのですが、、、全くテンションが上がらないのです。おかしい。とりあえず無理矢理にシャッターを切りましたが撮影に集中できないのです。んんん?確かに、被写体の住宅は決して綺麗な状態ではありませんが、魅力のない訳でなはいのです。住んでいる地元の方々が嫌がったり文句を言ったりすることもないし、むしろ中国語で興味ありげに話しかけて来てくれます。それが邪魔な訳ではありません。撮影が始まるとそっとしておいてくれます(インド人の知りたがり精神に比べたらどれほど思いやりのあることやら)。天気も悪くない。木漏れ日がうまい具合に建物に当たって、普段なら撮りたくなるような状況。ネパールで作品の写真を撮れなかった反動で撮影欲も溜まっていたはず。
けれども、なぜだか写真を撮りたくない。自分でも何が起こっているのかよくわからないので、とりあえずその日はホテルに帰りました。
次の日。今度は別の場所に行って、また前日の撮影地にリベンジ。
と思っていたのですが、やっぱり撮れないんです。被写体と向き合ってファインダーを覗くのですが、シャッターが切れない。切っても、んー、なんだか納得がいかない。心なしか首から提げたカメラも重い。甘ったるいこと言ってちゃ行けないんです、定時連絡でも引率の先生に頑張れって言われるんですけどね、スクーリング直前で撮らなきゃいけないのもわかってるんです、撮りたいんです、が撮れないんですよ。結局、この日も断念。
そうこうしているうちに、大連での撮影期間が終わってしまいました。写真を勉強し始めて以来、こんな経験初めてです。撮りたくない、なんて思ったことないかも。
撮れない理由をつらつら並べるのは簡単です。言い訳するのもすごく容易なこと。ただ、自分でもよくわからなくて困っていました。
今日は上海に移動して、寝不足ながらも大都会にわくわくして、一人で小龍包を食べに行きました。
明日からは日本租界地、虹口の撮影です。
写真が撮れたら良いな。
スクーリング準備期間が始まるまであと一週間。
撮ることでしか解決できないような気がするので、とりあえずシャッター切ろうと思います。
あ、こんなブログ、アウトですかね?