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2014年4月山本 遼
写真はスポーツ。
ベトナムは、ムイネーの砂丘にて。
燦々と輝く太陽の日の暑さに破れ、少し休憩しようと辛うじて立っていた木の陰に腰を下ろしていた。
遠くにうねる蜃気楼を眺めながら、これまでの撮影の記憶を思い返す。
空気の薄い山の頂上で、腰にも届く吹雪の中の海岸線で、幾度となく虫に刺させた森の中で、
これまでシャッターを切ってきた。一つの作品を作り上げるのに枚数も費やす時間もまだまだ
足りないが、そんな撮影を振り返って改めて思うのは写真はスポーツと似ているということだ。
そんなことを考え始めたのは、きっと今のテーマで撮影を開始した昨年の夏だったと思う。
私の場合、ご覧の通り被写体が山や森などの自然だったから余計にそう感じたし、
授業でも計ったかのように多くの先生が写真行為に対して野球の例え出して説明をするから、
「写真=スポーツ」という方程式が頭に刻まれるのはそんなに時間がかからなかった。
例え話で多かったのは、やはりイチローのような一流選手についてだったことと記憶している。
今や日本だけではなく世界でも大きな評価を受けているが、
その陰で彼は周りからかけられるプレッシャーと戦いながら、並々ならぬ努力を続けている。
彼独自のトレーニングは正確な時間で分けられ無駄がないのは、誰もが耳にしたことはあるはずだ。
これは、同じことを繰り返し行うことで体に打つ感覚や投げる感覚、キャッチする感覚を体にしみ込ませ、
本番でいつどのような玉が来ても対処できるようにしている。
道具に対する執着も凄い。先日、イチローのバットを作り続けて来た久保田さんが引退するニュースが
報道され、私も少なからずショックを受けているのだが...。
彼は、自分のバットやグローブといった道具を他人に触らせない。それは、他人の感触がそこに
残ってしまうことがいつものプレーに支障をきたすかもしれないからだ。
一見すれば神経質なことばかりだが、
こういった一つ一つの努力が首位打者という王冠を授かる結果へとつながっているのは間違いない。
写真はスポーツ。
数多くの場面に立ち会って、幾千万のシャッターを切って、
ああでもないこうでもないと言いながらしゃがんだり立ったりの繰り返し。
いつも相手からストレートが来る訳じゃなくて、カーブやフォークも飛んでくるから
それを今持っている自分の技術で対処しなければならないし、
休んでいても急にボールが飛んでくるときがあるから油断できない。
雨だって降るし、風だって吹く。でも、中止することなんて滅多にない。
むしろ、それが好機になるかもしれないから隙をうかがい続ける。
問題がでてきたら、どうすればいいか考え、改善策を練る。
体の向き、体の位置、構え方、レンズの種類、被写界深度、その他道具のあらゆる可能性を試す。
実際、練習と本番の差なんてない。でも、毎日の素振りはかかさない。
道具にだって愛着を持って接する。傷がどんどんを増えていくから、
拭いても綺麗にはならないけど、それは頑張ってきた証だから消えなくて良い。
続けていればいつかホームランを打てるだなんて思わない。
ホームランを打とうという意思を持ち続けなければ、いつまでたっても打てやしない。ヒットすらも。
バッターボックスに立つ、呼吸を整える、構える、ボールが来る、変化球を読む、
バットを振る、ボールが前に飛ぶ、走る、走る、ベースを踏む。
現場に立つ、被写体を探す、構える、しゃがむ、たつ、かがむ、シャッターを押す、
走る、走る、空気を読む、雰囲気を感じる、しゃがむ、たつ、シャッターを押す。
当然、自分の思った通りに行くことなんてほとんどない。
悩んで、考えて、挫けて、シャッターを押す。そして、見返す。坦々と、その繰り返し。
本気で写真をやっていたら、楽しいことより苦しいことの方が大半だと先生に言われたことを思い出す。
でも、その苦しさを乗り切ったらようやく本当の楽しさを味わえる。
まだまだ先は遠くて暗いが、このフィールドワークでその道を照らす光くらいしっかりと見つけたい。