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2025年7月ヴァエリノロ ヴァン アン
Bangladesh:インディゴ栽培
日本写真芸術専門学校フィールドワークゼミの留学生です。2025年の春から半年間、海外フィールドワークに参加し、アジアの10ヵ国を旅しながら写真作品を作ります。私のテーマは「旧植民地の現在のランドスケープ」です。
イギリス統治下のバングラデシュについて調べていると、「インディゴ栽培(藍の栽培)」という言葉が出てきた。インディゴの栽培は18世紀後半、イギリス東インド会社の支配下で始まった。ベンガル地方は気候的にインディゴの栽培に適しており、イギリスは大規模なプランテーションを各地に築いていきました。18〜19世紀のヨーロッパでは、特に繊維の染色に使うためにインディゴが高い需要を誇っていた。
ベンガルの農民たちは、自分たちの土地で食用作物ではなくインディゴを安値で栽培するよう強制され、経済的搾取と貧困、飢餓、そして暴力に苦しめられていた。
さらにインディゴ栽培は環境にも大きな負荷を与えていた。特に、イギリス人プランターたちが強制した抽出方法、土地の使い方、そして単一作物栽培は深刻だった。染料を抽出する際の発酵プロセスでは大量の水が必要で、その廃水が川や池、田畑に直接流されていた。
当時の問題はインディゴそのものではなく、植民地体制によるスケールの大きさ、強制、そして産業的な貪欲さにあった。
こうした農民への扱いに対して、現地の人々は何度も反発した。なかでも1859〜1860年にかけて起きた「インディゴ反乱(Indigo Revolt)」は最大規模の蜂起だった。これを受け、イギリス政府は調査を行い、「インディゴ委員会(Indigo Commission, 1860)」を設置。調査の結果、「インディゴ栽培は強制すべきでない」という結論を発表した。
その数年後には、ヨーロッパ諸国でも合成染料などの安価な代替品が登場し、イギリス企業はベンガルでのインディゴ栽培をやめて、代わりにジュートや紅茶、鉄道などへ投資を移していった。
当然、ベンガルの農民たちもインディゴ栽培を拒否し、食用作物の栽培へと戻った。こうして、インディゴ栽培はバングラデシュから姿を消し、深い傷跡だけを残しました。