BLOG
2016年9月涌井 駿
人間博物館
先々週の今頃は何をしていたのだろうかと問うと何をしていたのか分からないほど遠い記憶のように感じます。たった二週間前のことも覚えていられないなんてどうしたのだろうか何も一年前ではないし、ましてや10年前のことでもないのにすぐ色々な事を(忘れてしまう)又は(忘れようとしている)忘れる事に対して罪悪感がないのもいけないのかもしれないです。けれど僕の場合約束を忘れることは基本ほとんどなくて、むしろ約束を破る方が多いかもしれないです。約束と言う三角の紙を粉々に千切って火をつけて灰にして風にさっらていってもらっています。なにもなかった事にしているように自分自身で感じます。「いいえ、ここには元から何もありませんでしたよ」って自分に言い聞かせて相手にも言い聞かせているみたいです。けれどそんな事は滅多にしてないと思いたいです。そんな(忘れる事)を自分自身にも強要していると思うとなんだか少し辛いです。一体どこに仕舞っているのでしょうか、隠していると言った方が近いかもしれないです。それで結局自分で隠した場所も忘れてしまっているんだと思います。
ところで先々週の土曜日は何をしていたのかと言うと。ジャマイカからきた二人の兄妹と友達とくだらないゲームをしていました。カップラーメンを食べました。何かを左足にこぼしました。気ずくと朝、隣に友人が寝ていました。びっくりしました。寝て起きたらいるはずのない人が寝てたら「うわぁ」ってなりますよね。ならないほうが可笑しいし、夢でも見てるのかと思いました。
本当に「うわぁ」なんて言うのかと思うかもしれませんが、「なんでそんなにオーバーリアクションなの?」って聞かれるほどには意外とリアクションは大きめです。目が死んでるとか、本当は思ってなさそうだと言われる機会が多くありました。心の底からではないけれど底に近いところからリアクションをしています。それについてちょっと悩んだ時期がありました。その結果身振り手振りをもって伝えやすくしようとなったのかもしれません。そのおかげで前よりも「本当は思ってないでしょ」って言われる機会は減りましたが、身振り手振りリアクションに注意がいって、そんなに言葉には興味がなくなるのかもしれませんね。りんご飴やチョコバナナと一緒な気がします。色とりどりの飴の色、チョコにつぶつぶの装飾、ベースとなる部分はその時になると対して欲しくはならない、周りの飾りだけで満足してしまう食べ物と同じかもしれません。
なにかの小説で、本当に深刻なことは陽気に伝えるべきなんだよ、とありました。僕は基本的に陽気だし飄々としているので、深刻な事を伝えるときは果てしなく陽気にならないと伝えられないのかもしれないと思うとなんだか少し違う気がしてしまいます。そんな深刻なことを陽気に伝える奴は好きにはなれないかもしれません。「だれだれが死んだんだよね。あはは」深刻なのになんだか強そうに見せたり元気に見せる奴ってのは、博物館のガラスケースの中で変な笑みを浮かべる剥製の動物の様で何か妙に感じてしまいます。